2022年4月2日

お城旅行2日目は本能寺の変で有名な明智光秀が築いたお城、福知山城。大河ドラマ『麒麟がくる』を見て、光秀に対する見方も少し変わったし、それに伴って光秀の人物に関するテレビ番組も増え、ますます興味を持ち、城を見るのを楽しみにしていた。

石垣の一部は光秀時代のもので、その特徴の転用石が一番の見どころ。再建時の発掘調査で500個余りが確認されているというからすごい。

でもその前に、光秀時代のものではないが、江戸時代初期天守閣の様式を再現した天守がまず目に入ってくる。一目見て、大きい入母屋屋根の建物の上に小さい望楼を乗せた望楼型のお城とわかる。古いタイプの天守が新鮮に見える。

それに、見る方角によって大天守の外観がかなり違うのが興味深い。しかもどの方向から見ても左右対称ではないのもかなり個性的。
東側は千鳥破風が二重になっていて美しいし、壁は白漆喰総塗籠ではなく、下見板張りにしているのも、このお城には似合っているような気がする。正面の西側から見上げるとかっこいい。

その天守は丘の上に立っているので、桜に囲まれた昇龍橋を渡って上っていくのも趣があっていい。再現された城はコンパクトだが福知山城なりのよさが満載だった。


福知山城 - 明智光秀ゆかりの城   目次

明智光秀が1579年ごろに築城。明智氏の統治は「本能寺の変」までのわずか3年ほどだが、福知山の礎をつくったとされ、市民に親しまれている。望楼型の大天守(三層四階)に小天守(二層)が連なる連結式。

城は明治の廃条令により本丸・二の丸の建物が取り壊されたが、昭和61年に市民の熱い想いで江戸時代初期の天守閣の様式が忠実に再建された。

 

●明智光秀の人物像
●4方向から見る福知山城

●福知山城
●石垣
●福知山のまち
●天橋立

     


●明智光秀の人物像 謀反人といわれている光秀の本当の姿をテレビのお城番組などを参考にまとめてみた。
築城について造形が深い ・「築城について造形が深くすぐれた建築手腕の持ち主」(ポルトガル宣教師ルイス・フロイス)
実際、光秀がかかわった城は、明智城、宇佐山城、亀山城、福知山城、坂本城、周山城など10以上あるという。
また、もともと土づくりのお城、黒井城を石垣に変えたりしている
  ・信長の安土城で、初めて天守、石垣、瓦を用いた城がつくられたといわれるが、それより前に建てられた坂本城には天守があったという。また石垣や瓦も出てきている。
「坂本城は豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものに次ぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にない」(ルイス・フロイス)
すぐれた外交官 ・信長から京都の支配と公家とのつきあいを任されていた光秀は坂本城に朝廷、貴族、公家、お坊さんを招いてよくもてなしていた。坂本城は迎賓館の役目も果たしていた。
家臣を大切にする ・信長がトップダウンで意思決定を行うのに対し、光秀は家臣の話をよく聞いてボトムアップで意思決定を行っていた。
町づくりの恩人 ・城だけでなく城下町全体を川や堀で囲み(城と城下町を敵の攻撃から守る)、当時の先端をいく「総構え」の城をつくった。まさに城下町の基礎をつくった人。
領民思い ・日本海に通じる由良川を商品流通・物流の拠点にし、城下町の経済を発展させた。
常に水害に見舞われていた城下町を守るため、明智藪といわれる堤防を築き町を守ろうとした。
  ・町人町(自然堤防で地盤が硬い)のほうが武家町(湿地帯)よりも標高が高い。つまり町人を武家よりもいい場所に住まわせていた。
  ・土地や建物の税を免除するなど善政をしいてい.た。
今も人々に慕われている ・光秀は強く人々の記憶に刻まれ、城下町の鎮守である御霊神社に祀られ、「明智光秀丹波を広め、広め丹波の福知山」と福知山音頭に今も謡われている。
妻思い ・側室をとらなかったことで知られている。

 

●4方向から見る福知山城   ●印はクリックして拡大 
大天守の4方向の外観が違うので、どっちが正面か知りたくなる。昇龍橋を上って入っていく櫓門の方向、つまり東側が正面かと思っていたら、西向きに建てられているので西側が正面とのこと。→
またどの方向も左右非対称なのもおもしろい。
●遠くから南東側 ●福知山城の西側が正面

近くから東側

小天守のある北側 福知山城の南側

 

●福知山城  ●印はクリックして拡大 


←少し離れた南側の駐車場から見えるのは、福知山城の南側。標高40mの丘の上に立っているので、離れたところからだと全体像がよくわかる。

明智道秀の自動販売機がある。→
●南側から見た福知山城 光秀自動販売機

←お城への歩道には、お城と桜のデザインが刻まれている。他にも道のすべてが石垣のデザインに見えてくる。

天守に上るには、昇竜橋を渡る。↓
昇竜橋越しに見える、桜に囲まれたお城の景色が美しい。だが、すぐ下から見上げるのでお城全体はよく見えない。↓

歩道にもお城が 石垣の模様?


●下から見上げる福知山城 ●昇龍橋越しの天守 上から見る昇龍橋

本丸の石垣 狭間 明智光秀の家紋を見つけた

←天守閣入口前にあるのが豊磐(とよいわ)の井戸。深さが50mもあり城郭の本丸内の井戸としては日本一の深さ。今も清らかな水をたたえているという。

番所は廃城令で取り壊しを逃れた建物の一つ。二の丸の搭乗口にあったが、大正年間に天守台に移築され、天守閣の再建に伴い再び本丸跡に移転されたとのこと。↓

豊磐の井戸

  小さい櫓門


小天守

銅門番所

●下から見上げたところ

石落とし 東側に入口がある ●夜のライトアップも美しい

 

●石垣  ●印はクリックして拡大
「五輪塔や宝篋印塔をはじめ、石仏、石臼、灯篭などの石造物が大量に石材として利用され、これらは転用石と呼ばれる。転用石の大量の使用例は、福知山城や大和郡山城に見られる。再建時の発掘調査で五百個余りが確認されている」とある。
転用石をわざわざ探さなくてもいいぐらい多く使われているのを間近に見ることができた。
●転用石 転用石
石垣は、自然石を利用した野面積み。隅石の部分は短い方と長い方を交互に重ね合わせる算木積みが未発達で同程度の石を積み重ねる重ね積み技法が採用されている。→

明智光秀が築城した頃の石垣と、江戸時代に城が増築された際に積んだ石垣との境を示す境界線。右側の方が転用石が多く見られるので光秀築城時の石垣。


転用石   隅石は算木積みではない

←本能寺の変の後、羽柴秀長をはじめ、城主は次々と入れかわり、朽木氏になってからは廃条例が出るまで13代も続いたためか鬼瓦など家紋はすべて朽木氏の「隅立四つ目結」。

●境界線 朽木氏の家紋「隅立四つ目結」

 

●福知山のまち ●印はクリックして拡大 

●最上階北側からの展望 最上階からの展望 最上階からの展望

城の最上階は小さいが四方に大きな窓があり、福知山のまちを一望できる。

北側からは小天守の向こうに由良川が見える。

最上階

●城は遠くからでもよく見える




由良川は城の近くで直角に流れを変えるので、大雨が降ると勢い余った川の水が城下町に流れ込んでいた。明智藪といわれる堤防を築き町を守ろうとした。常に水害に見舞われていた城下町を守るため、光秀が築いたとされる藪、蛇ヶ端御藪(じゃがはなおんやぶ)または明智藪。↓
●福知山駅 ビル街からも見える  
案内板に「光秀は城下町を造るために堤防を築いて由良川の流れを変え、町に地子銭(じしせん)(税金)免除の特権を与えて商家を育てたとも伝えられています。その期間は短いものでしたが、光秀は強く人々の記憶に刻まれ、城下町の鎮守である御霊神社(ごりょうじんじゃ)に祀られ、「明智光秀丹波を広め、広め丹波の福知山」と福知山音頭に今も謡(うた)われるなど、広く永く市民に親しまれている」とある。
由良川 蛇ヶ端御藪

 

●天橋立  ●印はクリックして拡大
福知山から日本海の方に足を延ばし、一度は見たかった日本三景のひとつ天橋立へ。
先に北側エリアで、名物ばんばらこ丼をいただき、南側エリアの天橋立ビューランドで飛龍観を見学。股のぞきしたら、確かに龍が天に昇っていくようだった。
●飛龍観展望台からの天橋立


股のぞきで天橋立が空に続いて見える 砂浜 橋が開いて船が通る

天橋立が横一直線に見える 天橋立マンホール ばんばらこ丼

 

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