2022年4月4日

お城に興味を持ち始めて初めてのお城巡り。大阪城、福知山城、竹田城とめぐり、最後の4日目が姫路城。
桜と青空のコラボという完璧な形で姫路城を見るのが夢だった。だが、しばらくこの日の予報は曇り/雨だった。最初の大阪城が晴れてから、福知山城、竹田城と、天気はどんどん曇りがちになってきていたので、天気のことはあきらめていた。
ところが、天気予報が少しずついい方向に変わり始めた。もしかしたら雨は降らないかも。それどころか前日の後半には晴れ間も出るようになっていた。そして次の日の朝起きると雲一つない晴天になっていた!青空をバックに桜に囲まれた白鷺城を見るという夢がかなった!
でもそれだけではない。姫路城には美しい揚羽蝶が何百匹(いや何千、何万匹かも)も舞っていることがわかったのも大発見!池田輝政はその美しい揚羽蝶の家紋を天守の屋根の軒丸瓦と積水瓦にずらりと並べている!美しい!城郭考古学者の千田先生によると、輝政は「戦いのためだけの城ではなく人々にずっと愛されるような城をつくりたい」と考えたそうだが、それが瓦一枚一枚にも表れている。そしてそれが現実になっているところもまたすばらしい。
ということで誰もが認める日本一の美しさと堅固さを併せ持った姫路城に満開の桜が散りばめられた景色を青空の背景で見られたのは本当にラッキーだった。まさに絶景の中の絶景!

姫路城入城料:1,000円(9時〜17時)
姫ちゃり:近くの姫ちゃりステーションで最初に登録して、借りてから1時間経つ前にどこかのステーションに戻すことを繰り返せば、最初の100円だけで1日乗り放題となりとても便利。

姫路城 - 現存天守、世界文化遺産、国宝   目次

白く輝く大天守の圧倒的な姿は、白い鷺が舞い立つように見えることから、別名「白鷺城」とも呼ばれる。
・黒田重隆の居城(黒田官兵衛が姫路城で誕生)。
羽柴秀吉が官兵衛の勧めで入城し、改修した(1580年)。
・関ケ原の戦い後、池田輝政が入り大改修を行い、連立式天守を完成させた(1601年)。
・その後、本多忠政が入城して西の丸などを増築。
・その後の城主:松平氏、榊原氏、酒井氏など

  ●4/3午後 男山公園からの絶景
●4/4 姫路城の周囲
●入城
●大天守内
●天守閣の外へ
●西の丸
●瓦 - 家紋
     

 

●4/3午後 男山公園からの絶景  ●印はクリックして拡大 
電車の中からの姫路城 姫路に到着 キャッスルビュー

↑午前4時ごろ、姫路に着いた。さっそく、駅のキャッスルビューに行くと、駅から真っすく延びる大通りの先に姫路城が見えた!←
→右はズーム写真。 姫路は初めてだが、世界遺産姫路城を中心とした素晴らしい観光都市であることがすでにうかがえる。
駅のまっすぐ向こうに姫路城   ズーム


←まずはホテルにチェックインして荷物をおいてから姫路城へ。10階のホテルの部屋のカーテンを開けるとなんと真正面方向に姫路城が!

→夕陽に当たった姫路城を見るために、近くの姫ちゃりステーションでちゃりを借りて、北東にある男山配水池公園へ。


ホテルの部屋からズーム

姫ちゃりステーション

←途中、姫路城前からの姫路城にうっとり。
ちゃりは姫路文学館にある姫路ちゃりステーションに返し、すぐ近くの男山公園への階段(約190段)を上る。かなり急な階段。急いで上ろうとしたため途中で疲れてきたが最後はゆっくりペースで上って男山公園にたどり着いた。↓
姫路城前   公園への急な階段
●夕陽があたる男山配水池公園 ライトアップが始まった男山配水池公園 男山配水池公園ズーム


↑男山配水池公園からのお城は角度的にも美しい。しかも3つの小天守が全部見られる。しばらくすると曇りがちの西空から柔らかな夕陽を浴び始めた。日が落ちた後、ゆっくりライトアップが始まった。

←その後、また姫路文学館でチャリを借りて元来た道を戻る。姫路城前、大手前通りからのライトアップされたお城も美しかった
●姫路城前 大手前通り  

 

●4/4 姫路城の周囲  ●印はクリックして拡大
本当は朝5時ごろ起きて再び男山公園に行き、朝日を背景にした姫路城を見たかったのだが、さすがに旅行4日目となると体が気持ちに追いつかない。
7時過ぎに起きてチャリを借りたら、開城前の時間を利用して、主に逆光にならない東側のビューポイントから姫路城を追って、ぐるりと一周してくる。

マップ(クリックして拡大)の赤枠が写真に収めたビューポイント。→

周囲にも広々とした公園が多く、どの公園にも桜が散りばめられている。桜とお城が青空に良く映えて、どこから見てもすべてが絶景。

残念ながら、博物館は大規模改修工事中で建物の壁に映るお城を写すことはできなかった。美術館は月曜日休館日だったが門の外から写真を写すことはできた。

●マップ
●姫路城前 お堀に映る満開の桜 ●城見台公園
●東御屋敷跡公園 喜斎門跡近く 姫路市立美術館(休館日)

博物館の看板の写真(大規模改修中)

●シロトピア記念公園 ●シロトピア公園の桜とお城と花畑

北側のシロトピア公園からは東小天守から乾小天守をつなぐロの渡櫓を展望できる。
西側の千姫の小径はお堀と桜のトンネルに囲まれた気持いい通り。

その後、車門跡を通り、お城の南側へと曲がり、お城の真ん前にある、その名も白鷺小学校と中学校越しに姫路城を見て、姫路城前に戻ってきた。学校の真ん前に世界遺産姫路城がいつも見えるなんてなんという贅沢!

公園をお花見散歩中ですワン   池に映る姫路城
北西側の姫路城 千姫の小径 小径を振り返る
車門跡の桝形 学校と姫路城 桜とお城
イーグレひめじの屋上からの展望

 

●入城  

大手門を入ると三の丸広場。ものすごい数の桜の木が広大なスペースの城の至るところに散りばめられている。桜とともに写すお城はどこから見ても絶景。

入城口の手前の女坂からの姫路城も素晴らしい。

大手門 三の丸に入ったところ
三の丸 桜に埋まる姫路城 ●三の丸広場ぼたん園近く
西の丸方面 ●女坂 入城口

入城口で入城料1000円を払って入る。入ってすぐ左に管理事務所があったのだが入らずに進んでしまった。ここにお城のスタンプがあったみたいだ。残念。。。

←千田先生と行くお城の生配信の張り紙があった。
入城口   菱の門修理中

↑入城口の向こうにすでにシートをかぶったものが見えていたが、やはり菱の門は現在修理中で、木彫りの菱の紋や、華頭窓、黒と金の連格子などは見られなかった。残念。
修理は令和4年6月まで延長とのこと。

←最初の門は『いの門』で、「いろはにほへと〜」と続く。
正面は『いの門』、左に行くと西の丸 いの門  


←「はの門南方土塀」は、時代劇ドラマ「暴れん坊将軍」のロケ地になったことから、「将軍坂」と呼ばれる。
土塀には丸や三角の狭間が並んでいて、頭上に桜、進行方向に天守閣が見える。
この突き当りが『はの門』。
このあと、石垣伝いに歩き、くねっと曲がって『にの門』へ。
→三角形の狭間の向こうを覗いてみた。

「はの門南方土塀」将軍坂   狭間の中を覗く



←『にの門』は屈指の難関。天井板に開くところがあり、上から槍で敵を突き刺す。出口は小さく(左写真マウスオーバー)、いざとなれば石を落とし櫓を崩れ落として出口をふさぐ。このような門を埋門(うずみもん)という。
この門は最近漆喰を塗り直したばかりなのか、屋根も壁も城内で一番白く輝いていた。
『はの門』を出たあと 『にの門』(小さい『にの門』の出口)

 

『ほの門』を出ると、北腰曲輪。
この北腰曲輪は、珍しい家紋や鬼瓦が見える貴重なスポット。

池田家の揚羽蝶の家紋が目立つ。揚羽蝶と桐の家紋が交互に並んでいるのもある。その他の種類の家紋も。
家紋は下の瓦の家紋のセクションへ↓
『にの門』から『ほの門』へ 城内で一番小さい鉄で囲まれた『ほの門』  

←『ほの門』を出た右側、乾天守北側は、石集めに苦労した秀吉に、城下で餅を焼いて売っていた貧しい老婆が使っていた石臼を寄付したという伝説の石垣。
実際は、「姥が石」が詰まれている石垣は池田輝正が築いたものだそうだ。

石垣に使われたと言われる石臼   北腰曲輪
←『ほの門』の次は、ヘアピンカーブで『水一門』へ。そのヘアピンカーブの間にある壁が、油壁。城内でここだけ漆喰が塗られていない築地塀。
この壁は、羽柴秀吉時代のものと伝わる珍しい油壁。山土に豆舎利を加え、餅米のとぎ汁や青かゆで固めたと言われている。
『ほの門』から『水一門』と油壁   『水二門』

←『水二門』から『水三門』は攻め込んでいるはずなのに下り坂になっている。

→『水五門』を入ると天守に入る。階段を上がって、靴を脱いで、ビニールの袋に入れて持ち歩くことになる。

『水二門』から『水三門』への下り坂   『水五門』を入ると天守内に

 

●大天守内  

一階から六階までさまざまな仕掛けが!!
武具掛け:多くの武具掛けが見られる。天守が武具の倉庫であったことを示している。
東西2本の大柱:地階から五階の梁まで通柱となっている。
石落とし:一階の隅3か所にある。大天守の石垣に取り付く敵に石を落としたり、射撃のための設備。

武者走りと武具かけ

一階の石落とし


一階の二重の扉 東西二本の大柱

六葉釘隠し



六葉釘隠し
:釘の東部を隠すための装飾。ハートの穴が見えるが、6枚の葉っぱをデザインした結果、葉と葉の間に猪目といわれるハート型の隙間ができたもの。
破風の間:天守入口に掛かる入母屋破風の空間。
武者隠し:建物の四隅に武者が隠れる空間がある。
破風の間   武者隠しとその下に狭間
石打棚:東西に大千鳥破風があり窓の位置が高くなっているため、窓が使えるように石打棚を設けていて、ここから城外の敵を狙う。
五階刻み番付:破風の間を見上げると、名南北の破風の棟木に、この木がどこに使用されるかを示す番付の文字が彫ってある。

  石打棚(武者棚) 五階の刻み番付


幻の窓:
六階は壁面すべてに窓が開けられる予定だったが、築城途中で変更し、四隅の窓を塞いだと言われる。

六階の天井は棹縁(さおぶち)天井になっている。
また、この中心部分はかつて畳が敷かれていたとか。

六階の長壁(刑部)神社   六階の幻の窓

六階からの展望
はすばらしい。
西側には昨日上った男山が見える。すぐ下には、西の丸の長い百陂L下。
南側のすぐ下には三の丸で、大通りがまっすぐ駅まで延びている。南西方向には白鷺中学、高校が見える。
東方向には、今朝自転車で行った、美術館と工事中の博物館が。
北方向には、行ったシロトピア記念公園が見える。


六階の棹縁(さおぶち)天井   ●6階西方向展望

●6階南方向展望 ●6階東方向展望 6階北方向展望

 

●天守閣の外へ  

天守閣のすぐ前の広場に出た。ここは本丸(備前丸)の広場。ここからは下から見上げる天守閣が美しい。

角には石落としの穴が見える。

石落とし

●西方向から乾天守も見える

西小天守と乾小天守には、華頭窓や唐破風など美しいデザインが散りばめられているが、石落としなど防御もしっかりしている。
備前丸からは二の丸と三の丸、さらには姫路の街が見下ろせる(下パノラマ写真)。
●備前丸(本丸)真正面からの姫路城   ●西小天守


美しいけぎょ 華頭窓 備前門から備前丸を出る
備前丸(本丸)から見下ろす三の丸と桜と街


←備前門を出ると反対側の入口脇には直方体の大きな石が詰まれているが、これは「古墳に埋葬されていた石棺の身で、築城の際に石垣に転用されたもの。 古墳の積石として多く転用されているのが姫路城の石垣の特徴だそうだ。
この門の左側にも、また、『りの門』に続く石垣にも石棺が詰まれているのが見える。→

備前門入口   ここにも石棺が詰まれている

 

『りの門』をくぐると二の丸に出る。二の丸には枝垂れ桜が多く植えられていて、それと姫路城のコラボも美しい。

二の丸には「お皿が一枚、二枚〜」の播州皿屋敷の伝説が残る井戸もある。

備前門から『りの門』へ   ●二の丸からの姫路城


←『りの一渡櫓』に、石棺が展示されている。
「昭和の大修理でその石垣を一部解体した際にとりはずした。凝灰岩でできた石棺の身は中が空洞なので、もとの場所に積み直すと強度に問題が生じるため、実物は外して、この場所に展示している。もともと積まれていた箇所には、凝灰岩を同じ大きさに加工した新しい石材を積んでいる」とのこと。というわけで、先ほど見た石垣に積まれている石棺は本物ではないということだ

二の丸の播州皿屋敷の井戸    

 

『ぬの門』をぬけると目の前に大きな石垣が!これが「扇の勾配」。上に行くほど反り返り、敵に石垣をよじ登らせないための工夫だった。
算木積みも見事だ。

ぬの門 扇の勾配  


←『ぬの門』を通り抜けて、扇の勾配に沿って通る道から少し離れたところにひっそり、抜け道のようなものがある。そこからお城関係者が出てきたのでびっくりした。
この『るの門』は石垣の中に開けられた穴を出入り口とした門で、その構造から穴門と呼ばれる。菱の門やぬの門からみても、門の存在に気づきにくい位置にある。

るの門跡   ●菱門を出る手前からの姫路城
●三国堀と姫路城 三国堀の石垣:後からこの間を埋めた? 上山里下段の石垣は羽柴秀吉時代の野面積み

 

●西の丸  
大天守6階から見下ろした西の丸の全体像

百陂L下は長さ約300mもあるので、とても長いという意味でこのように呼ばれる。
化粧櫓は千姫(徳川家康の孫)が本多忠刻に嫁いだ際に、将軍家から贈られた10万石の化粧料の一部を使用して建設されたといわれる櫓。千姫が城の西北にある千姫天満宮を遥拝する際に、休息所としてこの化粧櫓を使用したといわれる。

西の丸南門跡 千姫のライトと狭間
百陂L下入口へ ●西の丸からの姫路城

靴を脱いで階段を上がって廊下へ

途中からさらに階段を上がり長い廊下を歩く。
廊下の西側には格子窓や狭間が備えられ、場外からの攻撃に対する防御機能もあった。
  長い廊下 窓から天守が見える
千姫 ●千姫家系図 男山の天満宮に向かい祈りをささげた
徳川家康の孫娘、秀忠の娘、徳川家光の姉である千姫は、7歳で豊臣秀頼と結婚し大阪城に入る。大阪夏の陣で夫は自害し、豊臣家は滅亡。千姫は炎の中から助け出される。その後本多忠刻と再婚。一男一女にも恵まれ、生涯で一番幸せな10年間を送るが、長男が3歳のとき病で亡くなり、夫、忠刻も31歳の若さで病に倒れる。江戸に戻った千姫は髪をおろして天樹院と号して、夫や息子を思いながら余生を送り70年の生涯を閉じた。
  長い廊下 庭園


化粧櫓までやってくると百陂L下を出る。その向こう側からは天守閣の西側とそれに至るまでの門や塀等が見える。
『はの門』、『にの門』から、『ほの門』の油壁や姥ヶ石があった西小天守の石垣など、先ほど歩いたところがよくわかる。手前にある、『にの門』の白さはやはりここからも際立って見える。→

百陂L下の途中にあるルの櫓   ●化粧櫓の向こう側からの姫路城

 

●瓦 - 家紋  

歴代城主が修理をした際に、その城主の家紋が使用されたため、鬼瓦、軒丸瓦、敵水瓦などに多様な城主の家紋などが残っている。
その中でも、池田輝正の揚羽蝶の家紋が軒丸瓦と積水瓦にずらっと並んでいるものや、桐紋がその中に混じっているものなどが多い。

同じ揚羽蝶でも、よく見るとデザインが微妙に異なるものや、写実的なものからイラスト的なものまでいろいろあって、ついつい変わったアゲハがないか探してしまう。
下の特に@〜Bは各所でよく見られた。微妙に違うものは同じ種類として、以下の7種類の揚羽蝶を見つけることができた。
逆さアゲハは大天守のかなり高いところにあったようで、見ることができなかった。

北腰曲輪の近くに家紋が集められている  


@いの門の軒丸瓦の揚羽蝶 Aいの門の積水瓦の揚羽蝶 B北腰曲輪の揚羽蝶
Cいの門の揚羽蝶 Dいの門の揚羽蝶 E北腰曲輪の揚羽蝶

敵水瓦とは:

軒丸瓦の下にある逆三角形のような形をしたもの。→↓
屋根の雨水を集めて滴らせる役割を持つ瓦。別名高麗瓦ともいわれ、朝鮮半島から伝わった。敵水瓦の瓦頭にも歴代城主の家紋が入ったものを各所にみることができる。
姫路城では天守はもちろん、多くの屋根にこの敵水瓦がついていた。見た目もレースのようで美しい。


F天守閣の窓から  

揚羽蝶と桐の紋

←『いの門』では、軒丸瓦や積水瓦に、池田家の揚羽蝶の家紋、千姫が嫁いだ本多家の家紋である立葵(たちあおい)、そして桐の門などが見える。

またその軒下には左の写真のように地面に瓦が縦に重ねて埋め込まれている(マウスオーバー)。

『いの門』の揚羽蝶、立葵、桐   ●揚羽蝶がずらり


北腰曲輪の剣片喰(けんかたばみ)と桐紋 北腰曲輪の違う種類の桐の紋 両側は池田氏の十四弁菊

姫路城の鬼瓦には、鬼面ではなく、歴代城主の家紋のほかにもさまざまな模様が描かれている。
『にの門』の西面にある唐破風の棟に乗っている鬼瓦には十字紋が彫られているというが、見える角度が難しく見逃してしまった。

  松平氏のタチオモダカ 天守の桐の鬼瓦
池田氏の揚羽蝶 酒井氏の剣片喰(けんかたばみ) 『にの門』の波頭
●美しいデザインの瓦たち 百陂L下の窓から4種類の紋が見える 百陂L下の窓から榊原氏の源氏車紋

←西の丸のほとんど(増築された部分)は、鬼瓦、軒丸瓦、積水瓦において、本多家の立葵の家紋がずらり。

↑ただ百陂L下の窓から覗いて見える古い瓦では、上の写真のように、さまざまな家紋が見られた。
西の丸を増築した本多氏の立葵紋 本多氏の立葵紋  

 

●姫路のお食事・おみやげ  
柊の穴子飯 姫路元祖明石風たこ焼きタコピィ 五層もなか

 

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