2023年3月28日

桜の時期に家康にちなんだ愛知お城旅行をスタート。1日目は名古屋城。さすがにコロナも落ち着き、さらに春休みでおまけに桜見頃の時期とあって、昨年の桜の時期に姫路城に行ったときとは比べものにならないぐらいの人出。天気も最高。

本丸表二ノ門を入って桝形を抜けると本丸御殿が見えるが、その向こうに全体の姿を現した天守閣に、誰もが「わあっ!すごい」と叫ぶ。その巨大さ、美しさに叫ばずにはいられない。 なんでも天守閣をつくるのに現在の金額では505億円かかるそうだ。ネットによると現代の10階建てビル建設費は6〜7億円ぐらいのようなのでどんなにすごいかがよくわかる。

少し距離をおいてホテルから見るお城と桜の競演は、もう時代絵巻を見ているようで実際にその時代に迷い込んだような錯覚を覚える。

もともと城郭として旧国宝第一号に指定された名城だが、昭和20年の名古屋大空襲で焼失した。天守閣と正門は、写真が多数残されていたため、1959年にほぼ昔どおりの外観で再建された(鉄骨・鉄筋コンクリート造)というから、単なる復元された城だけではなく、国宝級の城の価値がある。

ただ、天守閣は、設備の老朽化や耐震性の問題などで、現在は閉館中。木造復元も計画されているという。ただ、石垣もかなり傷んでいて、はらみの問題もあるようでこれからどうなるのか心配だ。

天守閣には入れなくても、2018年に資料や写真を基に内装まで忠実に復元された本丸御殿は近世城郭御殿の最高傑作とされているのでやはり一番の楽しみ。しかも写真撮影(フラッシュは禁止)もOKなのはうれしい。


家康年表(下表の葵紋のある時期に関連するお城)


名古屋城   目次

・豊臣家はまだ大阪城に健在だったので、対大阪対策としてこの城を築いた。
・1609年、家康が清須から名古屋への遷府令を発した。清須城は洪水や水攻めに会う恐れがあり、台地である名古屋に移転することを家臣が進言し、九男、義直を城主して、1610年、徳川家康が豊臣恩顧の西国大名20家に費用を負担させる天下普請で名古屋城の築城を命じた。
・また清須の街ごと名古屋へ引っ越す「清須越」が計画された。
・1612年に完成した天守は史上最大の延床面積を誇った。また、天守を飾る金の鯱や、鉄壁の守りを固めた要塞としての機能を備えていて、戦う気を失わせる抑止力をもったお城。
・明治半ばから昭和の初めにかけては、宮内省が管轄する「離宮」だった。
・五重七階地下一階、高さ36mの大天守。天守台の石垣を合わせると55.6メートルという高さ(徳川家康が建てた江戸城の初代天守に次ぐ規模)。容積は、あの現存姫路城天守の3倍以上。
・天守はあまりにも重くて石垣が沈下したので、重い瓦を銅板にしている。

 

●名古屋城桜祭り
●天守閣

●西南隅櫓と東南隅櫓
●西南隅櫓の中
●石垣
●本丸御殿
●西北隅櫓とお堀

●その他

     

 

●名古屋城桜祭り   ●印はクリックして拡大
ホテルから見える名古屋城
正門に足を踏み入れると、城内は桜祭り中で、大勢の人でにぎわっているが、ちょっと離れたホテルにはその喧噪は届かない。そこからは天守と桜しか見えない(高層ビルもあまり目立たない)。江戸時代に迷い込んだかのような錯覚すら覚える。
ホテルの窓から ●ホテルから見るライトアップ

名古屋城入口 正門 桜と人

猿回し大道芸

道路上の春夏秋冬の名古屋城 金シャチ横丁

 

●天守閣   ●印はクリックして拡大 

大天守は2層3階の小天守と渡り廊下で結ばれている。天守閣には2018年から入れなくなっているので、大天守と各隅櫓の存在が大きすぎて、小天守の存在は薄い。

↓破風には、鬼瓦を初め、目立たない箇所にも葵の家紋がいっぱい。

●正門近くからの名古屋城 ●名古屋城


●左から御殿、小天守、大天守 葵の紋だらけ ●大小天守
不明門を出たところからの天守閣 不明門の槍の穂先を並べた剣塀 扇の勾配と向こうに不明門

 

←金鯱は左右微妙に大きさが異なるようだが、重さは約1.2トン。
↓不明門を出た先に天守礎石が置かれている場所がある。「昭和20年に焼失した急国宝天守の礎石。地階穴蔵の地盤の上に置かれており、巨大な天守を支えていた。 長く焼け跡に残っていたが、天守閣再建にあたり、現在地に移し、かつての敷設状況を再現した。」

●天守の西北側 金の鯱
←2019年発行の雑誌に千田先生が「北側の石垣の中央から下部にかけて、石垣が外に膨らむ「はらみ」が確認されており、危険な状態にある」と書かれていたのだが、2003年から続いている、石垣を解体し再び積み直すという大規模工事にこの天守の石垣も含まれているのだろうか。
↓「加藤肥後守 内小代下総」と横向きに彫られた刻印(清正は大小天守台の石垣を担当した)。
●石垣はらみ問題   天守礎石
北側と東側の石垣 加統清正の刻印 ●天守と桜

 

●西南隅櫓と東南隅櫓   ●印はクリックして拡大 

←正門から入って最初に見えるのが西南隅櫓。左右に目をやると、視野の左端に天守閣、右端に東南隅櫓が見える。
→カヤの木は、築城以前からの古木で樹齢600年以上と伝えられる、国の天然記念物。徳川義直が大阪の陣に出る際、勝利を祈って、その実を食事の膳に盛ったと伝えられる。

●左から天守、西南隅櫓、東南隅櫓

カヤ
西南隅櫓 現存する本丸表二ノ門 東南隅櫓
←→西南隅櫓と東南隅櫓はともに他城郭の現存する三重天守にも匹敵する巨大櫓。
それぞれ、本丸の南西隅、東南隅にあり、屋根を二重とし内部を三階とする櫓。
石落としがそれぞれ西と南、東と南の二方向にある。
西南隅櫓の窓が開いているのは、平成30年11月から常時公開されるようになったから。

●西南隅櫓の雨落ち受け瓦と破風   東南隅櫓の唐破風と千鳥破風
<西南隅櫓と東南隅櫓の違い>
←西南隅櫓は1921年に倒壊したが、1923年に宮内省により修復されため、鬼瓦などに菊花紋が見られる。その再建修理で外壁は漆喰塗からモルタル壁に変えられたが、2010〜14年の半解体修理で元の漆喰壁に戻され、内装も江戸時代の姿に復元された。
2階南側の屋根上の千鳥破風前面に格式の高い軒唐破風を重ねる珍しい屋根構造を持つ。西南隅櫓は2階の屋根の上に三階屋根からの雨落ち受けの瓦を並べる工夫が施されている。
中から見た西南隅櫓の雨落ち受け瓦   蜂の巣
菊紋の鬼瓦 二の丸広場からの天守と櫓 内堀は空堀

 

●西南隅櫓の中   ●印はクリックして拡大

西南隅櫓は公開されていたので、中に入ってみた。当初は歴代藩主の鎧兜が納められていたそうだ。

御殿とは違って、中はかなり殺風景。窓は一部の明り取りを除きお堀側にのみ設けられていた。北側には、大天守側に伸びた多門櫓がここに接続していたそうだ。

西南隅櫓前から天守方向 西南隅櫓に入る
一階

一階廊下

2階の竪格子窓と石落とし

↑2階の南面と西面に張り出しを造り床面に石落としを設けている。

←3階は天井が張られ、3階の窓のみ竪格子がなく、長押しに葵紋金具を飾るなど住宅風に造られている、とあるが、この葵紋の釘隠しは二の丸御殿にあるものと同じようだ。この中にこれらのみがピカピカと輝いていて違和感を感じる。

天井のある3階は金の釘隠しが目立つ 立派な釘隠し  


→西南隅櫓の三階からの眺めはすばらしい。正門方向には見事な桜が。また北方向の窓からは天守が見える。まるで額縁で切り取ったよう。
↓西の丸御米蔵構の三番蔵と四番蔵の外観を模した西尾丸御蔵情報館。
江戸時代、西の丸の北部には6棟の米蔵が置かれていた。

3階の窓は格子がない   ●西南隅櫓から正門方面を見下ろす
西の丸御蔵城宝館 窓から天守 ●西南隅櫓の窓から見た天守

 

●石垣   ●印はクリックして拡大

→本丸表二之門:現存する数少ない名古屋城創建時の建造物。瓦が壊れている箇所がある。

↓本丸表二之門を入って御殿の入口に向かう右側の石垣で、いろいろな刻印が見つった。天下普請で行われたため、石材の所有者を判別するため、普請大名たちが刻印をつけた。

西南隅櫓の石垣と算木積み

●本丸表二之門

本丸表二ノ門を入った桝形内の鏡石 刻印 刻印

↓「旧二之丸東二之門:高麗門形式で、二之丸東鉄門桝形にあった門。昭和47年に本丸東二之門の跡に移設復元した。平成22年から24年にかけて解体修理された」
刻印 刻印
←清正石:「名古屋城で最大の石垣石材。ここ本丸搦手桝形の石垣は黒田長政の担当であったが、巨石であるがゆえ普請の名手加藤清正が積み上げたと伝えられ清正石と呼ばれてきた」と記されている。
搦手桝形の清正石   旧二之丸東二之(修理のあと)
→「年を経て下部に膨らみが生じ危険度が増した2,000m2を超える石垣を解体し再び積み直すという大規模工事が2003年から続いている。解体した石材は内堀などに仮置きしている」。内堀は空堀。
清正公石曳きの像 内堀の石の仮置き

 

●本丸御殿   ●印はクリックして拡大 
本丸御殿は、尾張藩主の住居かつ藩の政庁として、慶長20年(1615年)に、徳川家康の命によって建てられた。
昭和20年の空襲によって焼失。平成30年に復元が完成。日本を代表する近世書院造りの建造物で、総面積3100m2、13棟の建物で構成される。

御殿とその向こうのお城

玄関
玄関の天井 裏家紋、六葉葵の釘隠し 表書院一之間の天井


表書院二ノ間の襖の引手金具 表書院一ノ間から上段之間を覗く 表書院上段之間


表書院上段之間の天井 窓から天守が見える 表書院の通路


玄関→表書院→対面所→上洛殿と格式が高くなるにつれて、天井、欄間、飾り金具などがますます豪華になっていくのがよくわかる。

←スタッフの方が、表書院と対面所の間にある柱は、和釘が打ちっぱなしで釘隠しがないことを教えてくれた。

和釘がそのまま   釘隠し(別の釘隠し)
対面所次之間の風俗画 次之間の襖の引手金具 対面所上段之間の天井

天井:
玄関と大廊下に竿縁天井、表書院と対面所には格天井が使われている。
格天井の格縁を亀の尾と呼ばれる曲げ物にして折り上げた「折上げ天井」がある。
対面所では黒塗漆で、天井板には金箔を押しており、上段之間では折上げ天井の中央部分をさらに亀の尾を設けて一段折上げた「二重折上げ小組格天井」という豪華な天井となっている。
対面所上段之間 鷺之廊下の黒塗漆に金箔の天井
上洛殿上洛之間の二重折上げ小組格天井 上洛殿の彫刻欄間 上洛殿上段之間

 

↑上洛殿は、1634年の三代将軍家光の上洛に合わせて増築された建物。贅の限りを尽くした豪華絢爛な6部屋。


→長囲炉裏が備えられており、料理の配膳や温め直しのための建物だと考えられている。天井には煙だしがある。

窓から見える天守   下御膳所

 

●西北隅櫓とお堀   ●印はクリックして拡大
正門の外に出て、お堀と桜に彩られた石垣に沿って北に歩いて行くと、西北隅櫓が姿を現す。その向こうに天守の屋根と金の鯱が見えてくる。
西北隅櫓のみが三重三階の形状。高さ16.2mは国内に現存する3階建ての中では最大規模の櫓。清須城の小天守だったともいわれ清須櫓とも呼ぶ。
  ●お堀の向こうに天守 木々の向こうに金の鯱

●水面に映る西北隅櫓 西北隅櫓の向こうに天守が 裏側には窓がほとんどない
西側の堀と石垣と桜

 

●その他   ●印はクリックして拡大 

←愛知県庁:建物は洋風だが、頂部に城郭風の屋根を乗せたユニークな建物。

→名古屋城のちょうど南に位置するホテルや庁舎がある地域は、道路が広くゆったりした閑静な地域。

 

愛知県庁 ホテル近くの広い道

名古屋名物: 個人的には特にひつまぶしが気に入った。
駅の近くにあり一日中モーニングが楽しめる喫茶店「リヨン」は小倉あんプレスサンドはおいしかったが、喫煙のお店だったようでちょっと残念。
金シャチ横丁のみそかつ店はいっぱいだったのでテイクアウトしてお城でいただいた。


お城の中のマンホール マンホール 名古屋が詰まった消火栓



「リヨン」のモーニング(「コメダ珈琲店」) みそかつ(「山本屋」の味噌煮込みうどん) 「名古屋備長」のひつまぶし

 

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