2022年11月24日

二条通り沿いには、織田信長や豊臣秀吉が城を建てていたが、徳川家康の場合は二条通りを塞ぐようにして二条城を築城しているそうだ。このあと、264年も続く江戸時代を築くことになる権力者となることがすでに示されていたかのようだ。
お城初心者にとって天守がないのは少し寂しいところもあるが、豪華絢爛な唐門に惹かれて門をくぐった。唐門の向こうには、現存御殿4つのうち最大規模を誇る二の丸御殿。

この御殿では、1611年、家康が豊臣秀頼と会見した。1626年、家光が二条城の大規模な改修をして天皇を迎えた御水尾天皇行幸では江戸幕府の支配が安定したものであることを世に知らしめた。そして1867年、なんといっても徳川慶喜がここで大政奉還を決意したのはあまりにも有名だ。その後、徳川慶喜はわずかな家来を連れ、西門から寂しく退去したという。
まさに、徳川家、そして江戸幕府の歴史を見てきたお城だ。


 


二条城 - 世界文化遺産   目次

1603年徳川家康が築いた城。徳川将軍が京都に滞在するときに使った。幕府の富と力を見せつけるために御所の近くに造られた。
1614年、大阪冬の陣、夏の陣で、家康は二条城から出陣した。
1626年、3代将軍家光の時に御水尾天皇を迎えるため大規模な拡張を行った。
1867年には15代将軍慶喜が政権を天皇に返上する「大政奉還」を決意した。
名古屋城なみに大きかった五重六階の天守は落雷で焼失した。現存する御殿は4つしか残っていないが、そのうちで最大の規模を誇る。

 

●東大手門 - 唐門
●二の丸御殿・二の丸庭園

●本丸・天守台
●西南櫓・東南櫓など
●その他

     

 

●東大手門・唐門   ●印はクリックして拡大
→東大手門は、二条門の正門。櫓門であるこの門には飾り金具がいろいろ使われており、よく見ると右下には、隠れキャラクターの鳥が見つかり(千田先生による)、遊び心もうかがえる。上を見上げると石落とし。
通常ならこのような立派な櫓大手門は桝形の内側におくものだが、正面に建てているのは、徳川の力を見せつけるためのものだそうだ。

●お城の全体図 東大手門:矢印は隠れキャラクター

東大手門の石落とし 隠れキャラクター 白い横線が格式高い築地塀(ついじべい)

唐門は、二の丸御殿の正門。切妻造、桧皮葺の四脚門で、その屋根の前後に唐破風がついている。
門には力強い「龍」と「虎」、長寿を意味する「松竹梅に鶴や亀」、聖域を守護する「唐獅子」、復活、再建、永遠の命を象徴する蝶など、すべてで、徳川の権力がずっと続くということのシンボルとなっている。
豪華絢爛な極彩色の彫刻。
●唐門   桧皮葺と菊紋
菊紋の下に葵紋 長寿の象徴の亀と→
勇ましい龍と→ 権威・権力の象徴の唐獅子
御殿側 御殿側の鳥 復活・再建・永遠の命の象徴の蝶

 

●二の丸御殿・二の丸庭園   ●印はクリックして拡大 


東南から北西にかけて、遠侍や大広間など、全6棟(部屋数33室)の建物からなる。全国に4箇所しかない現存する御殿のひとつ。
内部は日本絵画史上最大の画派である狩野派による障壁画で装飾されている。
写真撮影禁止。
鶯の鳴き声のような音がなる床、「鴬張り」は昔修学旅行で確か聞いたような。。。


●二の丸御殿 二の丸御殿のひとつ


<写真撮影禁止の内部>
遠侍:将軍に謁見にきた人が待つところ。「虎の間」と呼ばれている部屋は虎と豹が描かれているが、将軍の権威と力強さを見せつける部屋。ちなみに豹は昔、雌の虎と思われていたそうだ。
また、虎自体は、むしろ猛獣がゆったり遊べる空間をつくった将軍の力の強さを間接的に示しているという。
ごつごつとした岩の荒々しい武家の庭園。

●二の丸庭園 ●二の丸庭園  

大広間:将軍と謁見する部屋。狩野探幽による松の障壁画。松は1年中緑色ということで、変わらぬ反映を現している。
ここで15代将軍慶喜が大政奉還の意思を表明した。
殿様が座る上の天井は高くなっていて、二重折上格天井(にじゅうおりあげごうてんじょう)という格式高いもの。

←微妙に異なる三つ葵紋の種類。

党側家初期のころの三つ葵紋 中期以降の三つ葵紋  

1626年御水尾天皇の二条城行幸のとき、東大手門から行幸御殿(このために造られた)に入り、5日間滞在したが、御水尾天皇は能を大広間下段の間で見た。大広間から西を見ると、庭園越しに天守閣が見えていた。天皇家に幕府の圧倒的な力を見せつけたということになる。またこのとき、天皇は武家のシンボルである天守に上ったそうだ。



御殿から天守が見えた 三つ葵紋  

 

●本丸・天守台  ●印はクリックして拡大 


←本丸櫓門は武骨で、銅でできている。しかも、門の前の木橋は落とすこともできるため、突破できない。

天守は5重6階の天守閣があった。姫路城に匹敵する高さだった。
もとは家康が建てたものだが、家光が御水尾天皇行幸(1626年)のために天守の位置を変え、拡張・改築した。↓

本丸櫓門 本丸櫓門の内側
本丸庭園と工事中の本丸御殿 天守台 天守台への階段


←真四角の本丸を石垣でかためているが、その内側は階段になっている。これを雁木という。どこからでも上られるようになっていて、しかも直線なので最小限の人数で効率よく戦うことができる鉄壁の守り。四方を取り囲むように雁木があるのは二条城だけだそうだ。

雁木 天守台からの眺望
天守台の上 天守台から北方向

 

●西南櫓・東南櫓など ●印はクリックして拡大 

西南櫓

東大手門側エントランス広場

東南櫓


二条城の外堀の四隅には隅櫓が建てられ、武器庫として使われていた。今では西南櫓と東南櫓の2つが残るのみ。

東大手門側エントランス広場は、晴れ舞台のデモンストレーションをするために使用された。

外堀

西門

↑大政奉還後に徳川慶喜はわずかな家来を連れ、二条城の裏門とも呼ぶべくこの西門から寂しく退去したという。
昔は木橋が架けられていたが、明治以降に取り外され、今は渡ることはできない。
←堀川の石垣は家康時代の石垣。当時はここまでがお城だった。この水路を整備したのは水運を活用するため。
外堀の石垣 堀川の石垣

 

北中仕切門の横には土手が延びている。これは家光がお城を増改築する前の城壁。

北中仕切門は、本丸櫓門への通路を防ぐ防御上重要な門。

土塁 北中仕切門  

築城時のものか、行幸時に建て替えられたのものかは分からないそうだが、いずれにせよ、当時のものなのに、東大手門より少し小さいだけで、取り上げられることがないのは、正門である東大手門に対する控えの門だからか。。。
●清流園   北大手門

 

●その他  ●印はクリックして拡大
→マンホール:古都京都にちなんで「御所車」をモチーフにデザイン化したもの。

この日の朝早く、嵐山の紅葉を見に行ったが、その前の晩の嵐で、かなりの木の葉っぱが散っていた。

近くの天龍寺の紅葉は真っ赤に燃えるモミジがすばらしかった。

  京都市のマンホール  
前の晩の嵐で葉っぱが散った木々が目立つ嵐山
●『パンとエスプレッソと嵐山庭園』の庭園 世界遺産・天龍寺(鬼瓦) ●天龍寺のもみじ
●天龍寺のもみじ ●天龍寺のもみじ ●天龍寺のふかふかのもみじ
  天龍寺の庭園  

 

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