2023年3月30日/9月15、16日

岡崎城は、なんといっても天下人、徳川家康が生まれたお城。
また、桶狭間の戦いのあと今川家から岡崎城に帰城し独立したが、三河一向一揆など幾度も苦難を乗り越えたところ。

岡崎城には、名古屋城、犬山城とともにこの春、桜の時期に一度訪れている。桜見頃の時期の岡崎は、桜で彩られた乙川の向こうに、これまた桜で囲まれたお城が見えるという、「神君出生の城」にふさわしい光景だった。

岡崎には、徳川家の菩提寺である大樹寺もある。その山門から総門を通して、3km先にある岡崎城が覗けるという三代家光が考えた大樹寺と岡崎城を結ぶビスタラインには感銘を受けた。

また、その景観が現在まで何にも遮られないように維持されてきたことにはただただ感動。

大樹寺からお城が見えるなら、お城から大樹寺も見えるはず。4月に急いで回った岡崎城に9月に再び訪れて、お城の最上階からズームで大樹寺が見えることを確認した。

岡崎から少し離れていて桜の時期には行けなかった、あの一向一揆が起きた主なお寺の一つ、城郭のようなお寺の本証寺にも9月に訪れた。櫓のような鼓楼、お堀、土塁など、お城との共通点が多いこのお寺は興味深い。


家康年表(下表の黄色の時期に関連するお城)


岡崎城   目次

1542年 (天文11年)徳川家康はここ岡崎城で生まれた。
1560年 桶狭間の戦いで今川義元が戦死したことを契機に岡崎城を拠点とした。1570年 本拠を遠江浜松に移すと、嫡男信康を岡崎城主とした。信康が自刃したあとは、 重臣の石川数正、ついで本多重次を城代とした。
1617年藩主、本多康紀の時代に三層三重地下一階、井戸櫓と附櫓が付属する望楼型複合連結式の天守として再建された。
1959年にこれとほぼ同じ外観で鉄筋コンクリ―ト造りで復元された復興天守。
江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視された。

 

●大樹寺
●大樹寺-岡崎城 ビスタライン

●岡崎城公園の川と桜とお城と
●岡崎城天守
●岡崎城
●八丁味噌
●本証寺

     

 

●大樹寺   ●印はクリックして拡大
岡崎城の3km北には、松平・徳川両氏の菩提寺となる大樹寺がある。桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に殺されたので、身の危険を感じ、大高城から大樹寺へ逃げ帰り、先祖の墓の前で自害しようとしたとき、住職に「厭離穢土欣求浄土」の教えを受け、思いとどまった。
●大樹寺の山門   ●大樹寺の山門の表側

満開の桜の木々の下、まさに浄土のような場所に松平八代墓がある。→
この門の向こうに松平八代墓 桜の下の松平八代墓
本当は、「厭離穢土欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」の「土」に点がついているらしいが、その意味は、土を強調するためで、登誉上人が家康にこの言葉を授け、「浄土(だれもが平和に暮らせる世の中)を目指せ」と力強く説法なさった。
家康像 徳川家菩提寺の大樹寺
室町時代からの多宝塔 徳川家紋と唐獅子の瓦 お寺にあるマンホール

 

●大樹寺-岡崎城 ビスタライン   ●印はクリックして拡大

 


ビスタライン:「大樹寺と岡崎城を結ぶ、標高差を利用した約3kmの直線を「眺望ライン(ビスタライン)」と呼んでいる。これは徳川三大将軍家光公が家康公の十七回忌を機に、『祖父生誕の地を望めるように』との想いを守るため、


→徳川家の祖先、松平家の菩提寺である大樹寺の本堂から山門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真ん中に岡崎城を望むように伽藍を整備したことに由来している。時は移り、岡崎城も再建されたが、大樹寺と岡崎城を結ぶ歴史的眺望は往時のままで、門越しに望む岡崎城は、まるで額のなかの絵のようである」
3qのビスタライン

 


単に山門を通してだけではない、その向こうの小学校の総門をも通して、3km先まで、それも約400年の間、特に高いビルが乱立する現代に至るまで、何ら眺望を遮るものがないようにビスタラインが守られてきたのは感動もの。

●山門の内側から総門方向

●大樹寺小学校にある総門の向こうに
大樹寺から岡崎城が見えるのなら、岡崎城からも大樹寺が見えるはずなので、9月に岡崎城にもう一度訪れた。天守最上階の北側に大樹寺方向が示されていたので、カメラのズームで写真を撮って後から探すと、大樹寺が見えた!→
●山門、総門を通して見える岡崎城   ●岡崎城から大樹寺を見る
←大樹寺の総門がすぐ向かいの大樹寺小学校南門になっている。なんというぜいたく!付近の電柱には生徒たちが書いた大樹寺と家康に関する俳句が貼られている。

電柱に大樹寺の俳句   小学校は150周年
小学校の総門の向こうからお城を探すと、その先、少し土地が低くなっているのか、お城の上部しか見えなかった→
小学校の総門から大樹寺を見る   総門の向こうからのお城

 

●岡崎城公園の川と桜とお城と   ●印はクリックして拡大 

広い乙川の両岸が満開の桜色で彩られ、その向こうに岡崎城が見える、というまさに家康が生まれた場所として相応しい景観。もちろん、家康の時代には桜はなかったが。

橋の策に岡崎城と乙川

乙川と桜

●乙川からのお城 桜の向こうに岡崎城

桜祭り開催中

乙川を渡ってお城へ ●北側からの天守

岡崎市のマンホール

 

●岡崎城天守   ●印はクリックして拡大 

←滞在したホテルの最上階から岡崎城天守を見ることができた。さまざまな方向からお城を撮影してみたが、周囲に木々があるためなかなか全容が見えないのは残念。

●ホテルの最上階からみた岡崎城

 

9月の青空に映える岡崎城

●萌黄色の木々とお城 お城の前に松の木

西方向からみた岡崎城

最上階から南方向 最上階から北方向 ●最上階から電車が見える

 

●岡崎城   ●印はクリックして拡大 

←この赤い神橋を渡ってお城へ。

→お堀と石垣と桜が織りなす美しい光景。

●神橋と龍城堀   ●龍城堀
●龍城堀沿いの石垣 ●神橋逆方向から 天守と龍城神社
↑家康が生まれた朝、岡崎城の上級に金の龍が現れ、昇天したという伝説が残る龍城神社。

←「天守台の石垣の内部は、地階として石垣に囲まれた穴蔵となっている。天守台の石垣は、花崗岩の自然石を用いて築かれている」
天守閣の入口 天守台の地階の穴蔵から入る

←→清海堀「古い時代に構築されたと考えられる曲線的な堀。本丸側は急斜面の土塁のままだが、、対面側は後の改修により石垣が築かれたもので、築城の変遷がみられる」。本丸北防衛のために設けられた。

●曲線の堀、清海堀 反対側から清海堀
←持仏堂曲輪と天守台をつなぐ橋。「1920年に現在のアーチ型石橋に改修されているが、江戸時代は屋根付き廊下橋が掛けられていた。曲輪から天守へ直結する橋は珍しい」
→雁木にここのみ転用石(墓石)が使われている。
●アーチ型石橋   持仏堂曲の雁木(転用石)


●家康公・竹千代像ベンチと天守 北側の天守台石垣にある鏡石 大手門

 


←持仏曲輪にある八千代本店では「なめし田楽定食」をいただいたが、木の芽田楽はやわらかくて上品な味で、汁物は出汁がよくきいていてすべてに心がこもった料理だった。

  東隅櫓

↑城の中核となる二の丸につながる切通しを守る最後の砦。

←堀底を道としたもので、S字状に曲がる。東隅櫓から横矢がかかる構造となっている。

南切通し石垣と東隅櫓 ●南切通し石垣:菅生曲輪方向から  

 

●石像など   ●印はクリックして拡大
↓徳川家康三方ヶ原戦役画像の石像:三方ヶ原で武田の大群に無理な戦いを挑み、負け戦となって多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れることのないように、顔をしかめて苦渋の表情を表しているところを描かせた、その絵は徳川美術館にあるが、こちらのはその石像。


日光東照宮の方角を向く松平元康像

徳川家康公銅像

●しかみ像 本多平八郎忠勝公銅像 これは東岡崎駅の家康の銅像
大河ドラマ館 金陀美具足 兎を形象化した具足
↑家康が大高城への兵糧入れで手柄をたてたときに着用していたと伝えられる金陀美具足。

←毎時00分、30分に家康公の人形が登場し、能を舞い、遺訓を語る。
からくり時計   花時計は調整中

 

●八丁味噌   ●印はクリックして拡大 

 

「桶狭間の戦いで敗戦を味わった者の中には武士を辞める者もいた。そのひとり早川新六郎勝久は、寺へ逃げ込むと名を久右衛門と改めた。そこで出会ったのが味噌づくりであった」

 

八帖村 国の登録夕景文化財
「数代を経て1645年には、岡崎城から西へ八丁(870m)の位置にある八丁村で味噌づくりが本格的に始まった。その味噌は地名から「八丁味噌」と呼ばれ、当主が代々襲名する久右衛門の「九」の字を四角で囲んだマークから「カクキュー」の屋号が誕生した」


  天然の川石の重しで2年以上熟成 カクキューで最古の天保のしこみ桶
←大正庵釜春本店は開店前から地元の人たちが大勢並んで待っていた。八丁味噌まぜめんをいただいたが、地元の方たちはもっとシンプルなうどんを頼んでいた。
大正庵釜春本店の八丁味噌まぜめん   味噌パウダーがかかった味噌アイス

 

●本証寺   ●印はクリックして拡大

9月半ばになってもまだ猛暑が続くこの日の午後、田んぼの中にぽつんと立つ無人駅、南桜井駅で電車を降りた。暑いので駅からタクシーで行こうなどという考えは甘かった。周囲には家もないし人っ子一人いなかった。結局田んぼの中の道をスマホの地図を頼りにてくてくと約20分歩いていった。

南桜井駅 駅からしばらくは田んぼの中の道を歩く  
←鼓楼(寺院で時を知らせる太鼓をつるす建物で浄土真宗に特有の建物)がお城の天守や櫓のようで、しかもお堀や土塁もあり、城郭のようなこのお寺を一度見てみたかった。
●本証寺と堀 ●本証寺と堀

1704年に建設された山門

1663年に建てられた最も古い本堂 内堀がぐるりとめぐらされている
土塁 1703年に建てられた鐘楼 安城市の七夕まつりのマンホール
 
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